BodyTalk施術士になるまで(自己紹介です)

 

なぜボディートークに出会ったの?

なぜ施術士になろうと思ったの?

クライアントの皆さんによく頂くのがこの2つの質問です。

2012年に施術士になって現在4年目。今一度改めて振り返ってみようと思います。

ちょっと長い文章になります。のんびりお付き合いください。

幼い頃~高校時代

出身地:島根

出雲大社が一番有名ですがそれ以外は?と聞かれたらほとんどの皆さん答えられないかもしれません・・そう、それが島根県です笑

自然が豊かで海もスキー場もあるというほぼリゾートな地元。高校卒業までの18年間をそこで過ごしました。幼いころから何かしらのスポーツをやっていて小・中・高と全て運動部に所属、朝から晩までカラダを動かしていました。

そんな学生時代

看護師の資格取得してスポーツ現場で働きたい!

と、いうのが将来の夢でした。両親と姉が医療系の職種のため自分もその業界を目指すという想いが幼い頃からあったようです。そして「スポーツが好き」がミックスされた結果この将来の夢が出来あがりました。ただ、やりたいことは定まってたけど実現する方法がいまいちわかっていませんでした。

それを教えてくれたのが高校3年の副担任でした。

将来の夢について考える

文章を作っては消しての繰り返し。
自分のことを書くって難しいです。

副担任との面談で自分の将来の夢を話す機会がありました。

私)看護師の資格を取得してスポーツ現場で働きたい!って思っています。

先生)回り道しないで体育系に進んでスポーツトレーナーになれば?

スポーツ選手をサポートするには医療系の資格が必要だと思っていたので 体育系からなる という選択肢が全くありませんでした。そして「スポーツトレーナー」と一言で言っても色々な種類があるというのもその時知りました。

であれば、道は2つあるんだ。

・ 医療系からトレーナーへ
・ 体育系からトレーナーへ

さて、どっちにするか。そこから改めて進路を考えるようになりました。

 

余談です

先生はいつも赤ネクタイをしていました。逆に赤いネクタイ以外見た記憶がありません。最初の授業で強烈な出来事があったので途中まで私はかなり嫌いでした。しかし、最終的に私も含め生徒からものすごく慕われ生徒の距離が一番近い先生でした。見た目のイメージは「喪黒福造」。先生お元気にされてるかなー。

 

おばあちゃん、突然の体調不良

好きな食べ物:イチゴ

いちご狩りに行ったときの写真
記録40個。

先生からのアドバイスにより進路で悩んでいたある日。おばあちゃんが体調不良になり病院で検査をすることになりました。今まで病気らしい病気もせず元気に過ごしていたので親戚一同たいしたことないと思っていました。

しかし、結果はガン。

まだ最終的な段階ではないものの手術することになりました。そして開腹すると余命数か月。学校から帰った時にそのことを聞きました。

今でもその時のことを鮮明に覚えています。

母親の言葉、
その日の夕食の様子、
気温・ニオイ・音、
悲しみ、くやしさ、脱力感。

翌日から母親は毎日仕事が終わったあと数分間のお見舞いのために片道100kmを車で通う生活が始まりました。

私も行けるときにお見舞いに行きました。

病室には「いつもの」おばあちゃんがいました。

よくしゃべって、みんなの心配をして。

だから、安心していました。
きっと余命数ヶ月なんて嘘だと。

しかし、お別れの日はすぐにやってきました。

余命を聞いた日のことを思い出すと五感全てでその時のことが蘇り涙が出てくることもあります。

おばあちゃん、旅立ちの時

夏の主食:スイカ
お誕生日に母が送ってくれた
大栄スイカ と ソラ店長

母親から「おばあちゃんの容態が悪くなっている」と聞きました。余命数ヶ月と言われていたのに、半月も経たないうちに「今週が山場かもしれない」と。

すぐにお見舞いに行きました。今まで普通に会話してたおばあちゃんが別人のような顔をしてベットに寝ていました。

起きている時間もだんだん少なくなってきてる と 聞いていたのですが、私が行った時はっきりと目を開けてくれました。

私もいつものように振舞おうとベットのそばに座りました。

すると。

おばあちゃんが封筒を手渡してくれました。

少ないけど受験に行った時に使いんさい。
おばあちゃん応援しとるからね。
涼子の行きたい大学に頑張って行くんよ。

ハッキリした口調で伝えてくれ、おばあちゃんはそのあとすぐに目を閉じてまた眠りにつきました。ガン告知さえしてないけどきっとおばあちゃんは気がついていたのでしょう。。封筒の中には大金が入っていました。

病室から出て号泣。おばあちゃんがもうすぐ旅立つということを初めて実感しました。

そのお見舞いから一週間後。

おばあちゃんはみんなに見守られながら旅立ちました。人の死を初めて身近に感じました。そして初めて「死んだ人」を見ました。それが大好きだったおばあちゃん。本当に人は死ぬ。とてもとてもショックでした。

 

余談です

おばあちゃんはスイカが大好きだったので病室の冷蔵庫には必ずスイカがありました。私がお見舞いに来るときには必ずスイカが残してあり毎回食べさせてくれました。時期外れの小さいスイカなのにスイカ大好きな私のために残してくれてたのです。おばあちゃんに食べて欲しいと思いつつも「美味しい!」と言ってそのスイカを食べました。最後にお見舞いに行った日もスイカがありました。いつも通り食べる。それが私ができる最後のおばあちゃん孝行になりました。

 

進路決定

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帽子はすでに大人サイズの幼少期

おばあちゃんの旅立ちが、自分の職業選択に大きな影響を与えたのです。職業を目の当たりにするって大切です。それまでなりたいと思ってた看護師さん。憧れだけでやっていける職業ではありません。結局覚悟が決まらず、でも諦めることができず・・看護師さんになることは第2志望へと変わりました。

・医療系のスポーツトレーナーになるか
・体育系からスポーツトレーナーになるか

看護師さんになる選択が消極的になったため必然的に体育系からトレーナーになることにしました。これで進路決定です。それまでちょっといい大学に入りたかったためそこそこ勉強してました。

しかし、体育系を受験するのであれば違う準備もしないといけません。当たり前ですが体育系に進学する人ってスポーツ万能&体力アリです。これまたそこそこしか運動神経がなかった私は、勉強するよりも、走って、走って、バスケしていました。周りからみたら遊んでる受験生だったでしょうね。

そして無事スポーツ系の大学に合格しました。しかし、合格したのが第一志望ではない大学。浪人するか、はたまた第2志望の看護系へ行くか、かなり悩みました。

結局スポーツ系の大学に現役入学しました。

余談です

幼稚園に入る前から「○○がやりたい!」「○○がいい!」など意思がはっきりしている子供だったそうです。

今思い返せば、それが養われた(と思われる)出来事があります。実家で過ごした18歳まで毎朝行われていたことです。母親が私を起こしに来た時、目が覚めたか覚めてないかくらいの寝ぼけてる私にいつもこの質問していました。

以下、ある日のやり取り。

母)「朝ごはんはパン?ゴハン?」
私)「ゴハン」

母)「おむすび?お茶碗?」
私)「おむすび」

母)「白いおむすびと?」
私)「しゃけ」

母)「玉子は?」
私)「目玉焼き」

母)「固め?半熟?」
私)「半熟」

母)「早く起きなさいよ」
私 「ZZZZZZ」

これが毎朝行われてました。

決まればあとはスープやお味噌汁、焼き魚やウインナーなど合わせた朝食が出てくるという..今考えたらかなりのVIP待遇ですね。もちろん家族は私だけではないので、全員にそれをしてたようです。そりゃ、料理上手だわ。

このやり取りがあり「何か判断する時はサクッと決める」「自分の意思をはっきりと伝える」という私が出来あがったのでしょうね。

ちなみに、前回まで出てきたおばあちゃんからも同じ特訓をうけてました。

お正月の朝。

ババ)「おもち何個?」

私)「2個」

ババ)「あんこ餅は食べる?」

私)「いらん」

という質問攻めから1年がスタートしていました。

 

ハードな大学時代

コストコ彷徨い中・・

大学時代は、スポーツ漬けの毎日でした。講義で動き、部活で走り、バイトで泳ぐ。とてもハードな生活でしたが楽しい日々でした。

部活は、陸上部。今では当たり前ですが、当時では珍しい「治療ができる専属トレーナー」が在籍していました。もちろん学生です。ダブルスクールで鍼灸の資格を取得し活動されていました。

まさに私がなりたい職業「医療からのサポートもできるスポーツトレーナー」を目の当たりにしたのです。ものすごく勉強されていました。何を聞いても知っている、とても信頼できるトレーナーさん。そんなトレーナーさんになりたいなと当時強く思ったのを覚えています。陸上部は2年生で辞めその後はサークルに所属。そこから時間ができ名古屋のスポーツクラブでトレーナーの勉強をさせて頂くようになりました。

余談です

大学時代は1人暮らしをしていました。初めての1人暮らし、めちゃめちゃ自由を桜花しました。それまでしてこなかった痛い社会経験も色々としました。

・新聞屋に騙される(←気がついてすぐ交渉、全額取り返す)
・のぞきにあう(←即警察連絡、犯人つかまる)
・自転車盗まれる(←自分で見つけて取り返す)
・バイク盗まれる(←これだけ取られたまま!!くやしーー)

女子大、スポーツ系、ということもあり、結構たくましく生きてきました。高校生までの神経質な性格からガラッと変わったのがこの大学時代だった気がします。。。

 

入社1年目(広島)

ブログ用の写真を必死で撮り溜めてます

無事大学を卒業しスポーツクラブに就職、愛知から最初の配属地、広島へ引っ越しました。大学時代と同じように身体を動かすことが仕事のような職種なのでとにかく動きまくりの毎日です。業務はもちろんのこと、トレーナーとしての知識をガンガンに詰め込まれました。今考えたらとてもありがたい環境です。

が、当時は感謝の気持ち全くなし笑

教育担当の先輩に不平不満をぶちまけ、なんども「やめたい!」と口にした覚えがあります。その研修期間にがっつりと体調を壊したことがありました。気持ち悪い。。フラフラする。。でも、仕事は休むことなく出勤しました。

このことが、30歳の時に初めて受けたボディートークで出てくる内容となったのです。

余談です

最初の勤務地広島は、プロや実業団の選手が利用されていました。どこまで書いて良いかわからないのでどんな種目の選手がお越しになったか文章からご想像ください。

・太もも60センチの選手
・真っ黒に焼けた選手
・身長2mを超える選手
・電撃爆破で有名な選手

などなど。

当時あまり選手を知らなかった私は「日差しで真っ黒に焼けた選手」にとっても失礼な対応をしたことがありました。この選手の方、チームではなく個人的にご利用者されていたので私は「一般人」だと思ってました。他の会員様と同じようにその方にもお声がけをしていました。いつも同じブランドの違うウエアを着て来られていたのである日そのことをネタに話しかけました。

私)「スポーツされてるんですか?」
選手)「はい、ちょっとだけしてます」

そのあとも何かしらやりとりしてその場を立ち去りました。その会話を聞いていた先輩にから裏によびだされました。

先輩)「あんたあの人誰か知ってる??」
私)「いえ知りません」

先輩)「日本代表選手よ!!」
私)「えーーーーーー!!」

謝りにいきました。なんとも心の広い方、笑顔で対応してくださいました。その後、その方が引退するまで全力で応援したのは言うまでもありません。。

 

10_転勤、転勤、また転勤

今とほとんど顔形変わりません。
なんとも意志が強そうな
幼稚園児です(笑)

体調不良で勤務を続けていましたが若いといえどもやはり無理は続きません。ある時、具合が悪すぎて会社を休みました。幼いころ皆勤賞を狙うような子供だったので「休む」ということに対してものすごい罪悪感がありました。しかし、出勤することで周りに迷惑を掛けることも事実。思い切って2日ほど休ませてもらいました。

その後、無事体調復活、通常業務の日々に戻りました。夏が過ぎ、秋が来て冬を越して2度目の夏が終わったころ。大阪へ異動となりました。

この大阪時代はものすごーーーーく働きました。めちゃめちゃ働きました。自宅には寝に帰る程度。今じゃ、色々な意味でできない働き方、いい想い出です(笑)そして、大阪、神戸、福岡と異動が続き2008年に東京へと引っ越してきました。

余談です

広島 → 大阪 → 福岡 → 大阪 → 神戸 → 大阪 → 東京 と、転勤しました。転勤はみんなと離れるので寂しい気持ちもありましたが、新しい土地に行くことは毎回とても楽しみでした。いつしか「異動したら次いつ転勤するかわからないしとりあえずその土地の名所は回っておこう!」と るるぶ を買うようになりました。

現場を離れ本社勤務に

関東への引越しと同時に現場を離れ本社勤務となりました。

今まで現場でトレーニング指導をしていたのが全てパソコン業務で全く異業種に転職した気分。それまで学生さんなど若いスタッフに囲まれていたのが本社では先輩たちばかり。そのギャップに慣れるまで随分時間がかかりました。そして、それまで一緒に働いてきた仲間との「違い」にも悩まされました。

信頼して心を開いていいのか・・
一線おいたほうがいいのか・・

ごくごく一部の人ですが、疑わなければならない人が周囲にいました。人間関係によくある話しかもしれませんね。その一部に人に不信感を抱きつつも業務も忙しく毎日があっという間に過ぎていきました。

誤解のないようにお伝えしますが在籍していた会社はとてもいい会社です。人として魅力がある方のほうが圧倒的に多かったです。それまではそのようなことに悩まされることが無く楽しく過ごしていました。ごくごく一部の人間に振り回された結果人間不信になりそうだった、ということです。

下がらない熱

本社業務に慣れてきたころ業務がさらに増え抱えきれないくらいの仕事量に膨れ上がっていました。そしてスタッフ同士の人間関係問題も勃発。PC開ければ未開封のメールが山盛り、携帯には鬼のような留守電の数。

人生で一番悩みが多い時期だったと思います。四六時中ずっと仕事関係の事で頭がいっぱいでした。そんな時、隣部署部長からこんなことを言われました。

「体調大丈夫か?」

実は、体調も最悪でした。微熱がずっと続いてたのにも関わらず休むことに対してネガティブだっため一度も休むことなく仕事を続けていました。病院に行くことを勧められましたが何となく乗り気じゃなかった私。

それならば他部署に面白い施術をしてるスタッフがいるから受けてみたら?と言われちょっと受けてみることにしました。それが、ボディートークだったのです。

 

初めてのボディートークセッション

セッションをお願いしたものの何をするか全くわからず指定された会議室に行きました。あまり面識がないスタッフだったので少し緊張。何をするか特に説明も受けずこちらの状況を軽く伝えしてセッションがスタートしました。

手首を持たれ、黙っていること数分。

「23歳の時こんなことがありましたか?」

突然言われ、ドキっとしました!広島時代に辛かった内容そのままでした。それこそ、当時の事なんて全く知らないスタッフだったので驚き過ぎて言葉が出ませんでした。その後数分でセッション終了。それまで1ヶ月近く続いてた微熱は翌日から下がりすっかり良くなりました。

これがボディートークとの出会いです。

当時社内には日本に入ってきて間もないボディートークを勉強してるスタッフがすでに数名いました。

もしあの時体調を壊してなかったら・・・
もしあの時「面白い施術」を教えてもらってなかったら・・・
もしあの時社内に勉強してるスタッフがいなかったら・・・

どの要素1つなくてもボディートークには出会っていませんでした。

休養1か月という診断からの仕事復帰

人間というのは都合が良いもので、熱が下がるとボディートークのことなんて頭の片隅にも残ってませんでした。相変わらず多忙な日々を過ごしてた時にまたもや体調不良に襲われました。今度は完全にダウンです。

肉体的な疲労は常にマックス。精神的にも疲れてたようで会社を出て電車に乗ったら自然と涙が出て止まらなくなる。この涙、なぜ出てくるのか全く自分ではわからない状態。もう、これだけでもヤバいなと今なら思えます。しかし、当時は全く気が付かず。

仕事がてんやわんやな時追い打ちをかけるようにプライベートでも一波乱ありました。(※一波乱の内容は省略します・・)

顔色も常に悪く、体重もかなり落ちフラフラ。(※現体重より約▲13kg)

そんな時、またもや他部署の部長が声かけてくれました。

「とにかく休め」

半強制的に病院に連れていかれ診断書を頂き上司に提出。それまで消化してなかった休みを使って1ヶ月程度休養しました。しかし正式に休みをもらってもやはり休むことに対しての罪悪感がひどく・・。早朝目が覚めどうにかして会社に行こうとしつつも起き上がれない毎日。

みんなは働いている。
私、寝ていいのかな。。

なんて葛藤を繰り返していました。

終業時間近くになってやっと、自由な気持ちになり近くのスタバまで歩いていく。この繰り返しで毎日過ごしました。周りのサポートで少しずつ体調も回復、気持ち的にもゼロまで戻り休養期間終了。また本社勤務に復帰しました。

余談です

ボディートークで元気になりました!なんて、書けたら一番よかったのですが残念ながらこの時点ではまだなんですよね。

この時は周りの皆さんにサポート頂いたお陰です。何も詳しい理由は聞かず駆け付けてくれた元同僚、気分転換に家から連れ出してくれた友達、心地よい距離感で見守ってくれた人事部担当さん。などなど。ホントに当時はありがとうございました。

タラレバになりますが、ボディートークセッションを受け続けてたらこのあと悩まされるこちになる「トラウマ」が残ることもなかったのかもしれないなと思います。

ちなみに。会社を1ヶ月休んだこと、家族は全く知りません。きっと、読んでたらびっくりすることでしょう(笑)。心配されるってしんどい時もあるんです。まだ周りに悩みを相談できるうちは余裕がある。悩みが深くなったら誰にも話なさない....っていうのは本当ですね。

施術士になることを決意!

本社復帰後それまでとは違う部署に配属が決定。人間不信気味だったのがどんどん解消されていきました。しかし、本社はワンフロア。ふとした時に過去の事に触れフラッシュバックが起き思考停止することが多々ありました。いわいる「トラウマ」です。電車で自然と涙が出てくる時期よりも後遺症のほうがひどかったのです。

そこで、あ!!っと思い出したのがボディートーク。ボディートークという名前はよくわかってなかったので「あれやってー」とお願いして何度かセッションを受けました。当時受けたセッション詳細は覚えていませんが「感情解放」や「許可」などが沢山出た気がします。

数回受けた頃フラッシュバックの回数も減少、苦しんでた時の関係者とも普通に会話ができるようになりどんどん元気になりました。あれだけ体調不良だったのにもかかわらず病院に行ったのは最初の1回だけ。

周りのサポートとボディートークですっかり元気になりました。

元気になった頃、ボディートークを必要としてる方きっと必多いだろうな・・周りからは元気に見えるけど実は逆の人って結構いるだろうな・・なんて思うようになりました。

その頃すでに「リフレクソロジー」や「アロマトリートメント」は勉強を始めていました。リフレもアロマも心身にともに癒されるテクニックとしてとてもいい技術だと確信していました。しかし、不調を起こしている本当の原因にフォーカスするボディートークはもっと変化が期待できるのではないだろうか。

そう思いました。

よし!!!勉強しよう!!と思いCBPになることを決意しました。それまで休む事に対してあんなにネガティブだった私が有休を使いセミナーに参加し受験条件を整え施術士試験を受けました。そして、合格後!ボディートーク施術士として活動をスタートしました。

そして、現在に至ります。


当店をオープンした頃ほとんど知られてなかったボディートークですが、現在は沢山の方にご利用頂いております。セッションを通じてどの年代にもお勧めできる施術だと改めて実感しています。

自分の身体は自分で治す。

人間誰しも持ってる自然に治癒する機能を発揮させ、より快適な、より楽しい毎日を過ごして頂けるようこれからもサポートさせて頂きます。

 

書き終えて。


あまりに長い文章になりました。全て読んでくださった方はどのくらいいらっしゃるのかな??最後までお付き合い頂きありがとうございました。

そして今後ともよろしくお願いいたします。